大人になるということ
物語には、読むべきタイミングが各個人にあって、わたしたちは知らず知らずのうちに、そのタイミングを感知したり、あるいはその本を手に取っていれば感知できたのに、そうできなかったがゆえに機会を逸することもあると思います。
わたしは、本屋さんや図書館で本を買ったり借りる時、その本のはじめのページの、1.2行目くらいを読みます。
そこで、その文章がすんなり自分の中に入ってきたら、その本を連れて帰るんです。
ほんとは、読むべきタイミングだったのに、その本を手に取らなかったがゆえに読むことができなかったということは、なるべく避けたくて、本たちを眺めてなんとなく気になる本は、なるべく手に取りたいと思っています。
たまに、この作家さんは好きだから、と文章がいまいち馴染まなくても連れて帰ることもあります。
そうすると、ほとんどの場合、やはり読めないんです。
最初のページからなぜか読み進められないんです。
きっと、わたしにとってまだその本を読むべきタイミングが来ていないんです。
そういった本は、数ヶ月放置されます。
そして、何かのタイミングでもう一度その本のページをめくると、読めるようになっているんです。
そして、その本がすごくお気に入りになることもあります。
人の好みというか、感覚というのか、そういうものって、本人が気づかないところでいつの間にか変わっているんだな、と思います。
きっと、大人になるってこともそういうことなのだと思います。
前まで読めなかった本がいつの間にか読めるようになっているような。
わたしたちは、気づかないうちにいろいろなものを時間とともに積み重ねて、自分で気づかないうちに大人になるんだなあ、なんて思いました。
久々X JAPANについて
なぜか、Xに関する記事がアクセス数が多いようなので、また書いてみようと思います。
今回は、わたしが思う、
X(Yoshiki.toshi.hide.pata.taiji、インディーズ、デビューから1992.1.7)
X JAPAN(Yoshiki.toshi.hide.pata.heath)(taiji脱退からtoshi脱退、解散まで))
再結成、スギ様加入後から現在(Yoshiki.toshl.pata.sugizo.heath.(hide.taiji))
のイメージ(変遷?)を書いてみようと思います。
わたしは最近のニワカさんなので、Youtubeとか映画とかからの情報によるところのイメージなんだけどね
まず、X。
この頃が、若さもあるのか、一番良くも悪くもヤバさがやばい時代。
5人=Xという感じ。
髪型もだし、バンドの空気感が最高にやばい。
多分、taijiの存在だと思われる。
taijiがいる時のXって、触れたら切れそうで、とても危ういバランスで保っているような。
でもあの空気感好きだなあ〜
さっきまで笑ってたのに、次の瞬間超些細なことで、んだよ⁉て言って喧嘩しだしそうな。
言いたいことを言わないわけがない、我慢するはずがない、自分や、自分らのバンドの可能性をまるごと信じてるような。(完全なる想像)
正に、爆発寸前、破滅に向かって、という感じ。
(このツアー名、予言感がすごい)
この漲りまくってるエネルギーというか、ヤバさがライブ演奏にめちゃくちゃ反映されていて、もうやばさと勢いが半端ない。
やっぱりtaijiの存在感ってあるんだよなあ。
taijiがベース弾く姿、かっこいいんだなあ。
後、この頃ってベースの音が割と大きめな気がする。それも好き。
これをオーラとかカリスマ性とか言うのかな??
カリスマ性でいうと、yoshiki.taijiが同じくらいで、次がhideで、pataさんとtoshlが同じくらいなイメージ。
普通ならバンドに一人いれば十二分な、本気でやばいのが二人もいる!
しかも他の三人もかなりやばい!みたいな。
なんか、yoshikiとtaijiって、素でロッカーだよね。
特にtaiji。
あんな感じなのに、料理上手なんだよ?衣装とかも、手作りしちゃうんだよ?
でも本気でやばいんだよ?いつも巻き舌だしさ。
売れてきて、調子に乗ったわけじゃなくて、多分ずっとあの調子だもんね 笑
あれでこそXだ!とも思う反面、あの感じでやってたら、遅かれ早かれ(taijiを首にしようと無かろうと)やはりいつか爆発してしまうのが必然だったんだろうな、と思う。
次。taijiがいなくなって、heathが入ったX JAPAN。
いつからか分からないけど、X JAPAN≒yoshikiというイメージ。
やばいっちゃやばいんだけど、やばさが軽減された感じ。
heathの存在によってね。
taijiとは違って、火種にはならないだろう、という安心感?がある。
寡黙でクールな感じ。
ただ、あのほんとにほんとの微妙な危うさや、世紀末感みたいなものは、ちょっとなくなった気がする。
まあ、人気を得て余裕が出てきた、と言うべきなのかもしれない。
そしてlast live。
Xの時代の映像も好きだけど、このlast liveは、神がかっているのではないかと思う。
一つの曲に関しても、色んなライブでのいろんな演奏があって、それぞれの良さがあるのだけど、last liveは総合的に見て、この演奏が一番好きだ!て思えるものが多い。
もう最後なんだ!というものからか、本当の?破滅感というか。
X JAPANの曲って、優しいけど悲壮感漂う曲多いじゃない?まさに、それなんだよね。
曲が、まさに彼らのその時の状況をうたっていて、「音楽の中に入り込む」ではなくて、もう正に!みたいな。
伝説のライブなわけです。
で、再結成から今。
愛すべきおじさまたち、て感じ笑
sugi様が入って、また雰囲気が変わったかな。
sugi様のバイオリンと、yoshikiの怪我もあって、クラシカルな面も増えてきた感じもする。
yoshikiがめちゃ丸くなった感じがするけど、しょうがない?気もする。
それにしても、yoshikiのマイペースはすごい笑
まあでも、それを面白がってたり楽しんでるファンもいるだろうし、もうおじさんだから、好きなようにしたらいいと思う。うん!て感じ。
今のX JAPANは、こうして一緒にやれるだけで幸せじゃん。
てところがある気がして、かつての破滅感は流石にもうないかな。
て感じとか、
hideの、hideだあ〜
て感じが少し少なくて寂しくなるけど、まあ2人とももう居ないんだからしょうがない。
失ってしまったものもあるけど、それがあるからこその深み、みたいなものあると思う。
heathが細っくて、静かで心配になっちゃう。
今とか、何してるのー?ヒースー!って。
石巻だったかな、のライブでtoshlに、
あれ?ひーちゃんは?
そんなところに隠れてないで〜(肩ぽんぽん
て言われてて、なんか涙出てきた。
toshlは、穏やかで楽しそうで何より。
pataさんは、変わらん。
もうあそこで伝説になったから、頑張ったから、好きにやればいいと思う。
その雰囲気が嫌ならファンが離れていくだけだし、それでもついていくファンとか新たにファンになる人達もいるだろうし。
pataさんとかheathがもっとテレビ出てくれたら嬉しいのになあ〜なんて思うのでした。
神様のボート
小説のあらすじは紹介しませんが、ネタは思いっきりバラしますので、ご注意を。
あとがき
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いままでに私の書いたもののうち、いちばん危険な小説だと思っています。
と、江國さんはあとがきを締めくくっている。
どこがそんなに危険な物語なのか。
それは、最後の最後に会えてしまったところで物語が終わるからだ。
とわたしは思う。
結局彼は現れなくて、娘に目を覚まさせられて、これからは現実を歩いていこう、という結末なら。
桃井先生のところにお邪魔したら、帰り際に10年以上前にきみを訪ねて来た、と伝えられたところで物語が終わっていれば。
彼に再開した後、その人を目の前にしたら愛は消えてしまった、という結末なら。(斜陽みたいな)
それほど危険な物語ではないだろう。
現実はそうだよね。と言って、読み終えることができるし、人を救うことができるかもしれない。
例えばこの物語のように、ダブル不倫をしている人たちがいたとしたら、いくらその彼が甘い言葉を言おうと、結局うまくいかないよね、そうだよね、と思ったり、
例えば、ダブル不倫の末消えた彼を待ち続けている人がいたとしたら、彼女たちはこの物語に支えられて、神様のボートから降りることができるかもしれない。
もっと言えば、結婚詐欺とかそういう類の人を、目覚めさせることができるかもしれない。
ただ、この物語はそうではない。
彼女は、神様のボートに揺られて、運ばれて、目的地にたどり着いてしまうのだ。
娘が親離れをして、もうママの世界には住めない、と言われ、目を覚まし始めていた矢先、彼が現れてしまう。
夢は覚めなかった。最後まで。
傍から見たら、どう考えても嘘つきな彼が、約束を果たしてしまうのだ。
これは、とても危険。確かに。
ダブル不倫の末に、いつか必ずあなたを探し出す、なんて言って消えてしまう彼は、嘘つきのろくでなしでなくてはならない。
相場はそう決まっているはずなのに。
そうはならない物語なのだ。
江國様恐ろしや。
音楽には終わりがない
テイクをすごくとって分からなくなって、困惑してたみたいですね。
junk story より
そりゃそうだよね、と思う。
音楽には、終わりがない。
どれだけやっても、これで十分、という一線は存在しない。
練習して、突き詰めようとするほど先は見えなくなり、終いには何が正解なのかわからずに、あーもーやだ!なんて自分に対してなのか、音楽そのものに対してなのか、作曲家に対してなのかよくわからない怒り?を感じながらあーでもないこーでもないなんか違うと迷宮に入り込むこととなる。
わたしはピアノをかなり真剣にやっていた頃、公開レッスンを見に行ったことがある。
恐らくその学生は、音高か、音大の生徒で、わたしはピアノが上手なお姉さんだな、と思って彼女の演奏を聞いていた。
(とりあえず一度演奏して、指導していく形だった。)
ところが?、一度引き終えた後始まったのは、音階の練習だった。
音一つ一つの繋がりを聞いて、いかに滑らかに、一つの破綻も起こさずに弾けるか。
先生は、ピアノの奥深さだとか繊細さを、見に来ていた人たちに伝えようとしていたのだろう。
先生が伝えたかったことはすごく分かる。
ただその時のわたしは、その練習を見て底の見えない真っ暗な穴を覗いたような気持ちがした。
すごい!音楽って奥深い!と思うのではなく、途方に暮れたのだった。
終わりのない、音楽の奥深さが当時のわたしには怖かった。
音楽って底なし沼みたいだな、と思った記憶がある。
当時は、来る日も来る日もピアノを練習する日が続くのだと思っていたから、わたしはその事実に絶望した。
今でこそ、趣味でやっているので絶望感はないが、ただやはり音楽って底なしだな、と思う。
わたしの場合は、趣味でやってるのだし、何か本番に出ようと決心したところで、本番が来てしまえばおしまい。
そりゃ、プロとして世の中にCDを出すなんてなったら大変ことだ。
昨日、遂にhideさんのベストをBOOKOFFで買いました(Janne Da Arcのシングルス2も)、というお話でした。
不思議な境界線
時々、
あ、わたしここならずっといることができるかもしれない
と思うことがある。
永遠にいられるかも、みたいな。
まあ、いられないんだけどね。
そんな一箇所にずっといたら餓死するし。
多分それはわたしにとって去り難い場所、ということだ思うのだけど。
例えば、三鷹にある太宰さんのお墓の前。
例えば、なぜか心を打たれた絵画の前。
例えば、波照間のニシ浜。
例えば、東尋坊の荒波の前。
例えば、屋久島の白谷雲水峡の中。
例えば、偉大な山の山頂。
まあ色々あるのだけど、屋久島と東尋坊はそこにいる時に、明確にそう思った。
白谷雲水峡の中で、登山道から少し離れたところに倒木とかがあって、あそこにもたれかかってずーっとぼおっとしていたいなあ、それでいつかわたしの存在が無くなったら、この森の一部になれるのかなあ。
わたしここで朽ち果ててもいいかも。
なんてね。
でも、トイレにもいけないし、当たり前にご飯もないし。
めっちゃ辛いよね、
やっぱむりだ(・・;
しかも、そんなふうに死んだらわたし白骨化するよね、それはちょっとだめか…
とか思ったり。
(変なことを考えているわけでは決してなくて、それとは別次元の妄想)
東尋坊では、ほんとうに押し寄せる波の迫力がすごくてね、それも水だから、波の形っていうのは毎回違って、とめどなくその波が押し寄せてくるのね。
わたしいつまででもここいれる。
て思ったんだよね。
波の渦に引き込まれていきそうで、けれど決してその渦に巻き込まれるわけにはいかなくて、その水しぶきに触れることも、その水を受け止めている岩に触れることも、そこに降りていくことも叶わないの。
一生触れることはできないのだけど、それはただ単に死んでしまうから触れられないわけであって、物理的に触れることができないわけではないのね。
だって現実に存在しているから。
そこにあるのに決して人は立ち入ることができない、そのなんとなく矛盾したところがなんとも言えない感情になるんだよね。
そういう生と死の境界線が曖昧になるようなところになんとなく惹かれてしまうのかも。
(なんか危なく聞こえるけど、ほんとに決してそういう訳ではない)
決してその時点でそちら側に行くような可能性のある行為はしないんだけど、でももしこうしたら死ぬよね、ていう。
包丁を使ってて、ふと、自分の手首と、包丁の刃を見つめて、しまうような。危なくない方を、なんとなく自分の手首に当ててしまうような。
それで、怖い!痛そう!無理!やだ!やだやだ…
てなるっていう^^;
そういうことって、みんな思わないのかなあ。
しつこいけど、するんじゃなくて、思うだけだからね。
いつもじゃなくて、ほんとにたまにふとした時に。
そんなこと、ねえこういうことある??
なんて聞くものでもないし、確認のしようがないことなんだけどね。
話を戻すと、そういう生と死の境界線がみたいなものが、
わたしは今生きているんだ、生きたいと思ってるんだ、という実感を与えてくれて、そういうものに魅力を感じてるのかもしれない。
と思いました。今。笑
オチがついたので終わり。
尾崎豊とマリーキュリーの話
ぼくらは町でつくりだされたんじゃない
ぼくらも自然なんだ 青空のような
ぼくらはこの青空のひとつぶなんだ
NOTES 僕の知らない僕
共感する人!(^^)/
思春期にそんなようなことを考える人は、多分一定数いるんだろうな、と思う。
ね、人間も自然の一部のはずなのにね。
なんでか忘れたけど、この前、原子力の生みの親のマリーキュリーのことをポチポチ調べていて、何なんだろうと思った。
その時の日記こちら
↓
マリーキュリー、原子力を見つけた人。
きっとこの人がいても、いなくても、いつか、誰かが発見したのだろう。
どこかのタイミングで。
化学とは、そういうものなのだろう。
前だけを向いて、どこまでも貪欲に、研究をしていくものなのだろう。
その研究はきっと何も間違っていない。
ただ、爆発的な力を持ったものが見つかれば、それは武器にならずにいられるわけがない。人間は本来(一部の人間は)そういうものだ。
大昔から武器は絶えず作られ、より強く無情なものへとなっていく。
それは避けようのないことなのかな。
なら、なぜそのようなものが自然界にあって良いのだろう。
(ここからいきなり話が変わるのだけど、多分なんで人間は自然をそのまま受け入れて共に生きることができないんだろう、というようなところに思考が飛んだと思われる)
人間がいなければ、いま地球はどれほど美しく自由だろう。
星は輝き、海は澄みわたり、地はどれほど広いのだろう。
なぜ、人は自然の一部になることができないのだろう。
本来動物であり、自然であるはずの人は、なぜ自らを破滅に向かわせ続けるのだろう。
今日という日を生きるために。
(でもこういう発想って、間違えるととても恐ろしいものなんだと実は数年前に気づいたのね。ポル・ポト政権がそうなんじゃないかと思う。)
うん、脈絡不明すぎる 笑
まあいいんだ、日記だから。
そういうことで、共感の嵐が止まらないのですよ。
でね、マリーキュリーの話に戻る?と、ほんとにわたしは不思議なんだ。
長い地球史の途中で、原子力が発見されて、原子力爆弾が作られて、原子力発電所が作られることは必然だったのか、原爆のない世界は存在し得る可能性があったのか。
多分だけど、科学者と呼ばれる人たちがいる限り原爆のない世界が存在する可能性は、やはりとても低いように感じるなあ。
だからこそ、とても不思議なの。
そんな恐ろしものが作られることが必然だと思われることが。
原爆のある未来は太古の昔から決まっていたのではないか、なんてことを考えると、ハテナマークが頭の中を覆い尽くすような感覚になるのでした。
尾崎豊のことを言いたかったのか、マリーキュリーのことを言いたかったのか、どっちなんだ、わたし!
山を登るということ。
新潟の山で遭難した親子、心配です。
一週間以上たってしまいましたね。
登山届が2箇所に出されてたとかなんだかいろんな情報がありますが、山に入るということは、やはり遭難する危険性もあることを認識しておかないといけないと改めて思います。
と言いつつ、わたしはどんな山かとか、どんなルートなんだろうとか調べはしますが、細かなルートは先輩方に頼りっきりなのです。
ごめんなさい。
けれど、わたしも山に入る危険性は認識してそれなりに考えて山に入っているつもりです。
まず、やはり自分が登ろうとしているのはどのような山なのか。
コースタイムや、危険な箇所はあるのか、(今まで登ったやまと比較して)どれくらい体力が必要だと予想されるのか。
登山に詳しく、体力や技術がある人と一緒でないと無理だと思われる山には初心者たちだけでは行かない。(わたしにとって大抵の山はそう ^^;)
そして、家族にはどの山に行くのか伝えること。
後はやはり、持ち物。
エネルギーが果てないようにお菓子を多めに持って行く、水も550ml一本多めに見積もって持っていく、エマージェンシーシートも。
あと、ライターや、ちっちゃい懐中電灯も。
充電器とかもね。
使わない事が多い物たちだし、これだけじゃ足りないだろうけれど、何かあっても少しは生き延びれるように。
遭難しなくても、一人で滑落するかもしれないしね。
まあ、普段準備するときにそこまで深くは考えていないけれど、無意識の次元なのかな、と思う。
わたしは、一人で山に登れる技術も知識も、場合によっては体力も残念ながらまだないのですし、バーナーとかも先輩方にお願いしちゃってるけれど、山に入る危険性を認識しているか、してないか、というのはとても基本的だけれどとても大切なことなのではないかと思ったのでした。
今回の方たちがどれくらいの知識や経験があったのか、何を準備して持っていたかは、ほんとはどの山に登ろうとしていたのか分からないですが、食料や水を少し多めに持っていたら、やはり生きられる時間は長くなるだろうし、携帯の充電器を持っていれば、GPSとやらで発見できたのかもしれない。
今回のニュースを見ていて、やはりそれなりの山に入る時はそれなりに準備して、覚悟して入ろう。
と思ったのでした。