分かり合えるという奇跡は起こり得るのか2
昨日の続きです。
まず、分かり合う、ということに関して考えるにあたって、分かり合うことの定義を自分なりに決める必要性がありますね。
まず、分かる、という単語から考えてみたいと思います。
分かるとは。同義語で、理解する、という言葉があります。理解する、とは何か。なんだろ。それまでは不明確、不明瞭、知らなかったことが明確になる、ある問題の答えにたどり着く。例えば、因数分解を理解する。古文を理解する。
まず一つ目の定義としては、答えがすでに決まっていることに関して自分一人でその答えを導き出すことができる知識があること、というところでしょうか。
世の中にある様々な問題にすべて明確な答えがあるなら、分かるの定義は一つでよさそうなものですが、世の中には明確な答えのない問いが多く存在するため、二つ目の定義を考えなければならないと思います。
もう一つの分かる、とは、ある問題に対してたくさんの答えを推測することができるが、そのたくさんある答えの一つのプロセス(考え方)を自分なりに明確な理由をつけて説明できる。ただし、最終的答えが一致したとしても各個人でそのプロセスは同じだとは限らない。
二つ目の定義は、ある問題に対して様々な答えがあるが、その中のある答えに対して自分なりに明確な理由付けをすることができる。
でどうでしょうか。
ここでは敢えて、共感する、というようなふわっとしたものは分かる、には含めないこととします。
次に、合う、について。何と何が分かり、合うのか。
例えば、本を読んでいてある主人公の気持ちが分かる、著者の主張が分かる場合は、分かり合ったことになるのか。この場合においては、分かり合った相手と直接話をしたり触れ合うことが一般的にはできないとされるため、自分のプロセスが相手のプロセスと合致しているのか確かめる術がないことと、むしろ分かり合うというよりも著者の説明を一方的に読者がを受け取り、分かった気になっている可能性もあるため、分かり合うということは起こりえないとする。
すると、やはりここでは、分かり合うもの同士は、直接意見を戦わせたり、その場の空気や表情を直に感じることができる、人であると定義しよう。
そして、合うとは、単純に一致する、と定義しよう。
つまり、分かり合うとは、
ある問題に対して様々な答えあるが、その中の、ある答えに対して自分なりに明確な理由付けをすることができ、その理由付けがその場にいる2人以上で完全に一致していること。
無理じゃない??^^;
これ以上いくと議論が破綻しそう(もうしてるかも)なので続きはまた。