erry-am’s blog

人に言うことでもないけれど思ったことを徒然と。

分かり合えるという奇跡は起こり得るのか 4

ブログを書いているその時思うことを徒然と。

寒いです。ギターに夢中になっていたら左手の指が限界に達したので更新します。

 

とりあえず、言葉の定義としてはもう無いかなーと行き詰まったので、定義したことがありえるのか可能性について考えたいと思います。

わたしが分かり合うの定義として考えたのは二つ。

①ある問題に対して様々な答えがあるが、その中のある答えに対して自分なりに明確な理由付けをすることができ、その理由付けがその場にいる2人以上で完全に一定してること。

②ある2人の関係の中で、表情や癖、仕草を見て相手の今考えていることを推測でき、それが現実として当たっていること、それを双方がそれぞれに対してできるという状態。

 

まず一つ目の定義について。今回は、分かり合う人々を、共に何かを成し遂げようとする人々、と限定してみます。

個々の問題についてなら、あり得ると思います。ただ、すべてのことに対して、となると不可能だと思います。多分。ここからはただの私の主観ですが、そんなことがあったら気持ち悪いし。育ってきた環境、かかわってきた人たちや、その人たちとのかかわり方、頭の中で考えてきたことや、折に触れて吸収してきた様々な考え方が全く同じ人が二人として存在しないことを考えると、たとえクローンであったとしても、そのようなことは起こりえないと思います。

こんなことは自明の理かもしれませんが、方向性が合わない、とか価値観が違う、というのはここからくるものでしょう。おそらく少なくとも一度は何らかの点(定義における、答え)についてお互いに一致することがあったからこそ(例えば音楽が好きとか、そんな簡単なことでも)一緒に何かをしようとし、その理由付けが一致する面も確認することができたが、共同作業をしていく中で、その答え(目標とか)が時とともに変わったり、細かい答えに対する理由付けが一致しないことが多々出てきて、お互いに譲ることができなかった時。また、片方が相手が示す理由付けの相違を理解できなかった時。

わたしは、どんな2人以上のグループにおいても、片方の答えが変化したり、理由付けの相違は必ず発生すると思います。なぜなら、その2人は確固とした別人だから。きっと重要なのは、分かり合えない部分があることを前提とすることをできているか、また分かり合えなかったことがそれぞれにおいてどれだけ重要な点だったか、ということだと思います。

まず、すべて分かり合える、分かり合えている、と思ってしまうと、理由付けの相違等、当たり前のことが起きるとそのことを想定していなかったためにそのことがさほど重要な点ではなかったとしても関係が崩れてしまう可能性があると思います。また、すべて分かり合えていると思い、長く続いている関係は、分かり合えていると思っているのは実は自分だけで表面上だけの関係だった、なんてこともあり得るのではないでしょうか。

 

う~ん、だんだん迷子になってきたのでここらへんで。