erry-am’s blog

人に言うことでもないけれど思ったことを徒然と。

GWは久しぶりの登山でした。

わたしの周りに山に登る女の子ってあまりいなくて、少し寂しかったりします。

少し興味はある子はいるのだけれど、登ってみたいかな…!くらいに思ってる友達にきつい登山修行をさせるわけにいかないし。

 

登山って、やっぱりとってもとってもきついのだけれど、(GWの荒島岳で久しぶりに思い出した)登った人にしか分からない世界が確実に広がっているんですよね。(山に登る人は大抵そう言うかもしれない。)

ではその世界とは何なのか。

 

山の世界って、当たり前だけれど現実で、それも人が作ったわけではなくてほんとうにすべてが現実なんですね。

ただ、それと同時にものすごく非現実的な世界なんです。

わたしたちが、普段暮らしている世界と違いすぎて、ディズニーさえ勝てないくらい夢の(?)世界なんですね。

 

そうなんです、わたしはディズニーは山に勝てないと思ってるんです 笑

きっとその一つの理由には、わたしは子供の頃ディズニーに行かなかったから思い入れがそれほどないっていうのは大きいと思うのだけど、まあそれは置いておいてなぜディズニーは山に勝てないのか。

 

ディズニーは、もちろん行けば楽しいです。

そこは、ディズニー映画という、おとぎ話の世界を、お客さんが楽しめるようにプロたちが築き上げた世界なんですね。

正に夢の、言い換えれば完全に虚構の世界です。(ディズニーの悪口を言っているわけではないんです)

人間によって作られた、人工の夢の世界なんです。

ディズニー映画が好きだったら、楽しくて当たり前?だと思うんです。

 

では、山はどうか。

そこにそのままある世界なんです。

先人たちが道を切り開いてくれて、整備もしていただいてますが、そこに存在している世界に人間が入れるようにお手伝いしていただいていて、主役はあくまでただそこに存在している自然なんですね。

 

すごくないですか??

人間が人間のために作ったわけでもない、ただ、そこに存在している世界が本当にとてつもなく雄大で、美しくて、生命力に溢れていて神秘的なんです。

その世界は、人間がそこに立ち入ろうと立ち入らなかろうと、ずーーっと、そこにただそのまま存在しているんです。

晴れの日も、雨の日も、雪の日も、雷が落ちても、ただそこに存在しているんです。

山の景色、じゃなくて山の世界なんです。

 

山岳信仰ってあるけど、とても自然なことだと思います。

だって、あんな雄大で神々しい山の姿見ちゃったら、信仰しますもん。

 

まさにその世界で信仰が生まれてしまうほどの世界なんですよ。

 

終わり。

 

 

 

ひでとぱた

今日は、X JAPANのhideこと、松本秀人さんの20回忌です。

わたしにとっては、hideを知ってから初めての5月2日です。

昨日はちゃんと?ヒデの曲を聞きながら日をまたぎましたよ。

いや、泣くよね、そりゃね。

だって悲しいもんね。

 でね、なぜひでじゃなくてひでとぱたかと言うとね。

前も書いたかもだけど、わたしほんとにパタさんって凄いと思うんだ。

パタさんのポジションにパタさん以外の人がいたとしら、まあよほどの人でないと無理だよね。

隣で音を出して、音楽を作っていた人たちが、ふたりもいなくなっちゃったんだよ。

 

タイジのことにしても、今は一緒にやってない、ていうのと、二度と会うことのできないところに行ってしまった、では埋めようのない差がやっぱりあると思うのね。

 

だけと、パタさんは、その人たちのことを語るときに、悲しい!!!というのをあからさまにしない。

むしろヒデのことを語るときとか、結構つっけんどん 笑

 

なんでまたあなたの曲をやらなきゃいけないんですか、て怒りながらやってますけどね、て 笑

 

だけどね、言うことはそんな感じなのに、優しくて、どこか寂しそうな表情にほんとに深い愛情を感じるのね。

 

タイジが脱退するときとか、X JAPANのlast liveではとっても悲しくてやりきれないような顔をしてて、ほんとは見えないところでたくさん辛い思いがあったんだろうなと思う。

 

つっけんどんにでもしてないと寂しすぎてやっていられないのかもしれないね。

 

パタさんの語らないからこそ溢れ出てしまう愛情がとても素敵だな、と思うのです。

 

後、若い頃のパタさんが美人過ぎます。

美人なのに言葉遣いが悪くてバランスが良すぎます 笑

 

 

…はい、今日は晴天、という訳にはいきませんでしたが、春の暖かさが心地よくて、嬉しくなりました。

 

 

芸術家って

なんとなく、最近テレビでちらちら見るアーティスト(わたしが知っている)って、「普通」っぽい人が多いよね。なんと言うか。

そうでない人もいると思うのだけど。

例えば音楽でいうと、

Xとか、LUNA SEAとか、hydeとか、尾崎豊とか、マイケルとか、悲劇的なところがあるよね。

音楽とか佇まいとかに。

クラシック音楽も何かしら悲劇的な面があると思う。

ランランとかもある意味狂気じみてるね 笑

でも、わたしは音楽はそうであるべきだと思うんだ。

なんというか、音楽やってて、楽しい!もいいけど、それだけじゃないんだ。

やっぱり、芸術として音楽をやるんだったら、楽しい!じゃだめなんだよ。

そこに苦悩に裏打ちされたものが、そこにたどりつくまでの「何が」が見えないと。だめなんだ。

それは、出そうと思ってするんじゃなくて、溢れ出てしまうもので、人々を熱狂させる源になるものだと思う。

お気楽に行こーぜ!ばかり、気楽に力抜いていこうぜ!じゃやっぱりだめなんだよ。

音楽はそんなに生優しいものではない。

ひとりの人が、人生かけて、全てをかけて、心も身も捧げないと「芸術」は生み出せないんだよ。

それまでいかなくても、やっぱり今の、可愛く、楽しく、力抜いて、的な音楽は、何か馴染めない気がしちゃって。

芸術たるもの、狂気がどこかで必要なんだよ。自然な、狂気が。

だから、芸術家が「ありのまま」でいたり、「等身大の自分」でいる必要はないと思うんだ。

確かに、その姿はもしかしたら一般の人に安心を与えるのかもしれない。けれど、それはもはや芸術ではない。

芸術とは何か、という定義の議論もあるだろうが、それは、どこまでも何かを追い続けて突き詰めていく姿を芸術とするなら、それには当てはまらないのではないだろうか。

 

でも、もしかしたら、「普通」の皮をかぶった「芸術家」がいるかもしれない。

では、なぜ彼ら彼女らは「普通」の皮をかぶる必要があるのだろう。

それはきっと、時代の?流れなんだろうな。

今はやらないもんね、あんまり。

真に狂気じみた感じって。

何あの人。きも。

て言われて終わりそう…

なんか寂しいなあ〜

と思いました。

 

終わり。

浸食 

 

L'Arc~en~Ciel

浸食 l lose control

 

芸術だ〜!!!て思いました。

歌詞狂ってるけど。いいんだよ別に。

虹も変わった曲だなあ、て思ったけど、これは、なんじゃこりゃ〜!(hide風)

という衝撃。

 

(ちなみに、hydeさんとhideは、同じ秀人、という名前。hideだとXのhideと紛らわしいということでhydeになったらしい。)

 

え、これhydeさん以外歌えるの?てかL'Arc~en~Ciel以外にかっこよく演奏できるバンドあるの?

 てか、ken天才じゃない??

hydeの歌詞もいかれてるけど、これにこの曲つけちゃうkenも相当じゃない??

hydeの歌唱力とか、表現力を信頼していて、すごく彼に合ったものになっていると思う。

そしてこれを歌いきるhydeさんとそれを包み込む楽器隊どういうこと??

 すごくない?ねえ!!て誰かにすごく言いたいけど、言う人がいなくて消化不良!!

 

なにがそんなにすごいんだろ。

とりあえず聞いたらわかると思うのだけど、敢えて文字で語ろうとすると、何を語ればいいんだろう。

 

不可思議なギターから始まり、そこへふわっと、不可思議なリズムでドラムとベースが滑り込み、そこになんとも色気のあるhydeが歌う旋律が加わる。

やがて楽器の音が静かになり、一瞬のhydeの独唱後、

不穏で甘くて切ない雰囲気から一転、ギターの歪み音を皮切りに、突如テンポが変わり、ヘビーなサウンドと叫ぶようなhydeの歌声に。

苦しみをたっぷり背負ったようなhydeの歌いっぷりが素晴らしい。

そして、激しいサウンドがいきなり途切れ、一瞬の空白後、ぞくっとするほど色っぽいhydeのI lose controlが続く。

 

こんな不安定な曲なのに破綻が全くない。

 これは、ドラムとベースのなす技だろうか。

 そして、この曲が作られたのは、20年前。

 

まあ、名曲かどうかというのに、いつ作曲されたかなんてのは基本的に関係ない訳だけどね。

 

最近はJanne Da Arcを車でかけていたのだけど、今日はやけhydeさんの声が聞きたくなって、L'Arc~en~Cielに変えたのでした。

junk story

もう春だし、もうすぐ5月だし、見てみました。

最初の方は良かったのだけど、後半涙涙。

hideって本当にいて本当にいなくなったんだな、て再認識しましたね。

 

hide with Spread Beaverのメンバーが敢行したという松本秀人さん亡き後のhide with Spread Beaverのライブツアー。

hideが亡くなったからって、じゃあ全部なし、解散、とできるようなものではなかった、みたいなこと言ってたかな。

初日は、ファンもメンバーも、その場にいる皆がライブが始まった瞬間に泣き始めてしまったと。

でも、そのツアーをしたことで、hideはもういないんだ、ということを理解することができたと。

だから、なんとなくhide with Spread Beaverでhideと関わっていたメンバーは、もしかしたらそのツアーを通して、hideにきちんとお別れを言えて、ある程度その死を受け入れられたのかもしれないと思った。

hideとの思い出を、懐かしそうに、楽しそうに話す人が多いように感じた。

わたしの憶測になってしまうけれど、Yoshiki 、J の辺りは、hideがいなくなった、未だ思えてないし、思う気もない節がある。

Yoshiki

未だに受け入れられない、と言い

 

Jは、

正直、俺はまだヒデ兄がいなくなったっていうのは、思ってないんだよね、実は。いつでも、すぐそこにいて、やっちゃおうぜ、って言ってる。

(というような)ことを言う。

 

この人たちの中では、hideの音楽だけでなく、松本秀人も現在進行形であり続けるし、そうすることで、心のバランスを保っているように思えた。

彼の音楽はあり続けるけれど、もう彼はどこにもいないのに。

もしかしたら、彼の音楽はいつもすぐそばにいるのに、彼にはもう二度と会えないというアンバランスに、そうでも思わないと耐えきれないのかもしれない。

 

残された者のことを考えると、hurry go round の意義は、とても大きいように思う。

hide自身が、輪廻転生を歌い、また春に会いましょう、と語ってくれたことで、残された者も、春になればまたhideに会える、また天国ででも、生まれ変わってでもhideに会えるんだと気持ちを保つことができる。

 

今思ったけど、その点Taijiは強かったんだなと思う。彼は、hide、つまり松本秀人とはもう会うことはできないんだと、彼はもういないんだと心底理解している気がする。

Taijiが、hideに、送った曲、Dear Friend。

とっても控えめで優しい曲なのだけど、

最後の語りに、

 

 空に浮かぶ彼の笑顔。

宇宙を自由に飛び回ってるよ。

メッセージ。

そんな夢を見た。

 

hideが宇宙を自由に飛び回っているのは自分の夢の中だった、というところが大きな意味を持つ気がする。

hideが、宇宙を自由に飛び回っているとメッセージをくれた。それだけなら、向こうでまたhideに会える、hideは宇宙で楽しくやっている、そんな希望が見える。

だけれど、それはあくまでTaijiが見た夢であって、そうあってほしいけと願うけれど本当のhideはただ静かに眠っている、そんな風にわたしはうけとった。

分からないけどね。

 

pataさんは、どうなんだろ。分からない。

 

まあ、あの世へ行ったらまたバンド組むか。…あの世へ行っちまった。

 

この言葉には、どんな気持ちが込められているんだろう。

pataさんも、hide with Spread Beaverのライブツアーのメンバーだったと思うのだけれど、彼はhideの死を受け入れられているのだろうか。

すごく受け入れているのか、全く受け入れられてないのか、どちらかかもしれない。

淡々と、どちらかと言うと素っ気なく話すpataさん。

あのときはすごく辛かった、とか言うわけでもなく、気を抜いたら、あいつに二度と会えないわけじゃねえし、別にそんなに、なんて言い出しそうな雰囲気のpataさん。

あの世でいつかhideと再会できると、信じているようにも、彼がもうほんとにいなくなってしまったことがまだ受け入れられてなくて時が止まってしまっているようにも、見えた。

もしかしたら、お酒飲みながらhideに話しかけているのかなあ。

pataさんは、強すぎて逆に心配になる。

あの人は、自分の弱さを人に見せることがあるのだろうか。

 

そういうことを考えてると、生死観ってすごく難しい問題で、宗教と密接だなあと思う。

 

だから、宗教は生まれたのだろうし、人はそこに救いを求めるのだと思う。

 

後すごく不思議なのが、尾崎豊や、太宰治や、モーツァルトとか。若くしてなくなっている表現者は沢山いるのに、なぜhideのことになると途端に涙が出てくるのだろう。

 

hideを思う人たちの愛がそうさせるのかなあ。

きっとそうだね。

hideが周りに向けたはちゃめちゃな愛が、hideに跳ね返って、彼は今でも輝いているんだろうな。

 

とりあえず、以上、

わたしの推測だらけの感想でした。

☓☓

最近、XのCD、Jealousy を買いました。

ブックオフで。

わたしは今まで一つのアルバムを最初から最後まで真剣に聞くことをしたことがなったのだけれど、

(そもそもあまりCDを買ったことがないのだけれど)

このアルバムは、最初のEs Durのピアノ線を聞き始めたら、ちゃんと順番にSay Anythingまで聞いてしまうのです。

 

途中で飛ばしちゃいたい曲とか聞き流しちゃいたい間奏とかないんですね。

このアルバムの素晴らしいところは、5人全員が作詞あるいは作曲をしているということ、歌詞のない曲がなんと2曲、そしてフランス語の訳の分からない歌詞がついている曲が一曲。

もう5人のこだわりがつまりまくってて、バラードからよくわからん曲からアメリカンロック系から、とりあえず勢いな曲から、ほんとにいろんな要素が一つのアルバムにある。

Xは、こういう系統のバンドです、ていうなんと言うか一貫性みたいなのはなくて、なんだろうね。

5人の個性をよせ集めたらこうなりました!どうだ!みたいな。

そういうところがXだなあ、と思う。

 

Yoshikiの美しくて狂気じみた壮大な感じ

 

hideの、一貫性ないけど一貫してかっこいい感じ

 

Toshlの切なくて優しい歌詞と、まだ完成されていない感じの歌声

 

Taiji のアメリカンロック系っていうのかな?のノリと、voiceless screamingのなんなんだこの影があるけど限りなく優しい感じ(voiceless screaming好き)

 

Pata さんの、もうPataさんだ〜〜〜って感じ。

 

この5人じゃないとこのアルバムはあり得ないわけで、

(アルバムってそういうものかもしれないけど)

奇跡の一枚だと思うわけです。

可愛い人

最近興味がよくわからない方向にいっていて、L'Arc~en~CielのHyde さんとか、Acid Black Cherryのyasuさんとか、X JAPANのhideとか、pataさんとか、そこら辺の人たちがすごく可愛く思えるんです。

YouTubeとか見ててかわいい〜🤭て一人でにやにやしてるやばさといったらないというほど。

まあそういう世界の人たちも一定数いると思うのだけれど、わたしは少し前まで一般人?だったので、いまいち慣れない世界です。 

 

で思うのが、彼らはまあ男性だし、hideを除いてちゃんと歳をとっているし、おじさまたちなわけで。

何が可愛いんだと思うんですね。

 

確かにHydeとかyasuは美しいけれど、普通に考えたら、かっこいいはずなのに、可愛いと思わせてしまうのは彼らの何がそう思わせるんだろうと。

 

例えばさ、Yoshikiはメジャーデビューしたての頃見ると可愛い!とおもうけど、今のYoshikiは可愛くはないし、LUNA SEAにしても、inoranYoshikiと同じで昔は可愛い感じだったけど、今はかっこいい感じだし、杉様もかっこいいし、Toshlは可愛いとはなんか違うし。

あ。昔のTaijiはかわいいなあ。

 

何がそんなにかわいい〜!

と思わせるんだろう。

 

俺可愛いキャラでいこ。て思ってる人はいないと思うのね。

多分。

ナチュラルに可愛いんだよね。

存在が可愛い。

例えば、その人がすねてても泣いてても笑ってても多分可愛いんだよね 笑

さすがに皆様怒ったら怖そうだけど。

 

自分に正直、というか、感情が顔に出ちゃう人が多い気もする。

さっき挙げた人たち。

 

だから、その人がにこにこしてるとほんとに嬉しいんだろうな、て思って微笑ましく感じるのかなあ。

あ、なんか照れてる、とか、不機嫌なのか?とか、見てて楽しいのかなあ。

 

後は、見た目との果てしないギャップもあるかも。

人によっては。

その見た目でその発言とか行動する??みたいな。

見た目で決めちゃだめ、ていうけど、やっぱり見た目の雰囲気でどうしても推測しちゃうじゃない?

それを隠しきれない可愛らしさで裏切ってくる感じ。

なになにその可愛いリアクション!て 笑

なにその無邪気な笑顔!

なにその全力で真剣なのに可愛い感じ!

て。

 

後は、やはりアーティストだから、普通に話したりするときと音楽をしているときのギャップ。

そして、ギャップがありつつのやはり隠しきれない可愛らしさ。

または、ステージでのかっこよさと普段の可愛らしさのギャップも定番だよね。

 

まあとにかく、おじさまたちを見ていてわたしもそういうかわいい人になりたいなあ…なんて思ったのでした。

ただ、ああいう可愛さっていうのはただただ滲み出てしまっているものだから、なりたいなあ、て思ってなれるものではないのがジレンマなのでした。