erry-am’s blog

人に言うことでもないけれど思ったことを徒然と。

不思議な境界線

時々、

 

あ、わたしここならずっといることができるかもしれない

 

と思うことがある。

 

永遠にいられるかも、みたいな。

 まあ、いられないんだけどね。

そんな一箇所にずっといたら餓死するし。

 

多分それはわたしにとって去り難い場所、ということだ思うのだけど。

 

例えば、三鷹にある太宰さんのお墓の前。

例えば、なぜか心を打たれた絵画の前。

例えば、波照間のニシ浜。

例えば、東尋坊の荒波の前。

例えば、屋久島の白谷雲水峡の中。

例えば、偉大な山の山頂。

 

まあ色々あるのだけど、屋久島と東尋坊はそこにいる時に、明確にそう思った。

 

白谷雲水峡の中で、登山道から少し離れたところに倒木とかがあって、あそこにもたれかかってずーっとぼおっとしていたいなあ、それでいつかわたしの存在が無くなったら、この森の一部になれるのかなあ。

わたしここで朽ち果ててもいいかも。

なんてね。

でも、トイレにもいけないし、当たり前にご飯もないし。

めっちゃ辛いよね、

やっぱむりだ(・・;

しかも、そんなふうに死んだらわたし白骨化するよね、それはちょっとだめか…

とか思ったり。

 (変なことを考えているわけでは決してなくて、それとは別次元の妄想)

 

東尋坊では、ほんとうに押し寄せる波の迫力がすごくてね、それも水だから、波の形っていうのは毎回違って、とめどなくその波が押し寄せてくるのね。

わたしいつまででもここいれる。

て思ったんだよね。

波の渦に引き込まれていきそうで、けれど決してその渦に巻き込まれるわけにはいかなくて、その水しぶきに触れることも、その水を受け止めている岩に触れることも、そこに降りていくことも叶わないの。

一生触れることはできないのだけど、それはただ単に死んでしまうから触れられないわけであって、物理的に触れることができないわけではないのね。

だって現実に存在しているから。

そこにあるのに決して人は立ち入ることができない、そのなんとなく矛盾したところがなんとも言えない感情になるんだよね。

 

そういう生と死の境界線が曖昧になるようなところになんとなく惹かれてしまうのかも。

(なんか危なく聞こえるけど、ほんとに決してそういう訳ではない)

 

決してその時点でそちら側に行くような可能性のある行為はしないんだけど、でももしこうしたら死ぬよね、ていう。

包丁を使ってて、ふと、自分の手首と、包丁の刃を見つめて、しまうような。危なくない方を、なんとなく自分の手首に当ててしまうような。

それで、怖い!痛そう!無理!やだ!やだやだ…

てなるっていう^^;

 

そういうことって、みんな思わないのかなあ。

しつこいけど、するんじゃなくて、思うだけだからね。

いつもじゃなくて、ほんとにたまにふとした時に。

そんなこと、ねえこういうことある??

なんて聞くものでもないし、確認のしようがないことなんだけどね。

 

話を戻すと、そういう生と死の境界線がみたいなものが、

わたしは今生きているんだ、生きたいと思ってるんだ、という実感を与えてくれて、そういうものに魅力を感じてるのかもしれない。

 

と思いました。今。笑

 

 

オチがついたので終わり。

尾崎豊とマリーキュリーの話

ぼくらは町でつくりだされたんじゃない

ぼくらも自然なんだ 青空のような

ぼくらはこの青空のひとつぶなんだ

 

 尾崎豊

NOTES 僕の知らない僕

 

共感する人!(^^)/

 

思春期にそんなようなことを考える人は、多分一定数いるんだろうな、と思う。

ね、人間も自然の一部のはずなのにね。

 

なんでか忘れたけど、この前、原子力の生みの親のマリーキュリーのことをポチポチ調べていて、何なんだろうと思った。

 

その時の日記こちら

マリーキュリー、原子力を見つけた人。

きっとこの人がいても、いなくても、いつか、誰かが発見したのだろう。

どこかのタイミングで。

化学とは、そういうものなのだろう。

前だけを向いて、どこまでも貪欲に、研究をしていくものなのだろう。

その研究はきっと何も間違っていない。

ただ、爆発的な力を持ったものが見つかれば、それは武器にならずにいられるわけがない。人間は本来(一部の人間は)そういうものだ。

大昔から武器は絶えず作られ、より強く無情なものへとなっていく。

それは避けようのないことなのかな。

なら、なぜそのようなものが自然界にあって良いのだろう。 

(ここからいきなり話が変わるのだけど、多分なんで人間は自然をそのまま受け入れて共に生きることができないんだろう、というようなところに思考が飛んだと思われる)

人間がいなければ、いま地球はどれほど美しく自由だろう。

星は輝き、海は澄みわたり、地はどれほど広いのだろう。

なぜ、人は自然の一部になることができないのだろう。

本来動物であり、自然であるはずの人は、なぜ自らを破滅に向かわせ続けるのだろう。

今日という日を生きるために。

(でもこういう発想って、間違えるととても恐ろしいものなんだと実は数年前に気づいたのね。ポル・ポト政権がそうなんじゃないかと思う。)

 

うん、脈絡不明すぎる 笑

まあいいんだ、日記だから。

そういうことで、共感の嵐が止まらないのですよ。

 

でね、マリーキュリーの話に戻る?と、ほんとにわたしは不思議なんだ。

長い地球史の途中で、原子力が発見されて、原子力爆弾が作られて、原子力発電所が作られることは必然だったのか、原爆のない世界は存在し得る可能性があったのか。

 

多分だけど、科学者と呼ばれる人たちがいる限り原爆のない世界が存在する可能性は、やはりとても低いように感じるなあ。

 

だからこそ、とても不思議なの。

そんな恐ろしものが作られることが必然だと思われることが。

原爆のある未来は太古の昔から決まっていたのではないか、なんてことを考えると、ハテナマークが頭の中を覆い尽くすような感覚になるのでした。

 

尾崎豊のことを言いたかったのか、マリーキュリーのことを言いたかったのか、どっちなんだ、わたし!

山を登るということ。

新潟の山で遭難した親子、心配です。

一週間以上たってしまいましたね。

登山届が2箇所に出されてたとかなんだかいろんな情報がありますが、山に入るということは、やはり遭難する危険性もあることを認識しておかないといけないと改めて思います。

 

と言いつつ、わたしはどんな山かとか、どんなルートなんだろうとか調べはしますが、細かなルートは先輩方に頼りっきりなのです。

ごめんなさい。

 

けれど、わたしも山に入る危険性は認識してそれなりに考えて山に入っているつもりです。

 

まず、やはり自分が登ろうとしているのはどのような山なのか。

コースタイムや、危険な箇所はあるのか、(今まで登ったやまと比較して)どれくらい体力が必要だと予想されるのか。

 

登山に詳しく、体力や技術がある人と一緒でないと無理だと思われる山には初心者たちだけでは行かない。(わたしにとって大抵の山はそう ^^;)

 

そして、家族にはどの山に行くのか伝えること。

 

 

後はやはり、持ち物。

エネルギーが果てないようにお菓子を多めに持って行く、水も550ml一本多めに見積もって持っていく、エマージェンシーシートも。

あと、ライターや、ちっちゃい懐中電灯も。

充電器とかもね。

使わない事が多い物たちだし、これだけじゃ足りないだろうけれど、何かあっても少しは生き延びれるように。

遭難しなくても、一人で滑落するかもしれないしね。

 

まあ、普段準備するときにそこまで深くは考えていないけれど、無意識の次元なのかな、と思う。

 

わたしは、一人で山に登れる技術も知識も、場合によっては体力も残念ながらまだないのですし、バーナーとかも先輩方にお願いしちゃってるけれど、山に入る危険性を認識しているか、してないか、というのはとても基本的だけれどとても大切なことなのではないかと思ったのでした。

 

今回の方たちがどれくらいの知識や経験があったのか、何を準備して持っていたかは、ほんとはどの山に登ろうとしていたのか分からないですが、食料や水を少し多めに持っていたら、やはり生きられる時間は長くなるだろうし、携帯の充電器を持っていれば、GPSとやらで発見できたのかもしれない。

 

 

 

今回のニュースを見ていて、やはりそれなりの山に入る時はそれなりに準備して、覚悟して入ろう。

 

と思ったのでした。

GWは久しぶりの登山でした。

わたしの周りに山に登る女の子ってあまりいなくて、少し寂しかったりします。

少し興味はある子はいるのだけれど、登ってみたいかな…!くらいに思ってる友達にきつい登山修行をさせるわけにいかないし。

 

登山って、やっぱりとってもとってもきついのだけれど、(GWの荒島岳で久しぶりに思い出した)登った人にしか分からない世界が確実に広がっているんですよね。(山に登る人は大抵そう言うかもしれない。)

ではその世界とは何なのか。

 

山の世界って、当たり前だけれど現実で、それも人が作ったわけではなくてほんとうにすべてが現実なんですね。

ただ、それと同時にものすごく非現実的な世界なんです。

わたしたちが、普段暮らしている世界と違いすぎて、ディズニーさえ勝てないくらい夢の(?)世界なんですね。

 

そうなんです、わたしはディズニーは山に勝てないと思ってるんです 笑

きっとその一つの理由には、わたしは子供の頃ディズニーに行かなかったから思い入れがそれほどないっていうのは大きいと思うのだけど、まあそれは置いておいてなぜディズニーは山に勝てないのか。

 

ディズニーは、もちろん行けば楽しいです。

そこは、ディズニー映画という、おとぎ話の世界を、お客さんが楽しめるようにプロたちが築き上げた世界なんですね。

正に夢の、言い換えれば完全に虚構の世界です。(ディズニーの悪口を言っているわけではないんです)

人間によって作られた、人工の夢の世界なんです。

ディズニー映画が好きだったら、楽しくて当たり前?だと思うんです。

 

では、山はどうか。

そこにそのままある世界なんです。

先人たちが道を切り開いてくれて、整備もしていただいてますが、そこに存在している世界に人間が入れるようにお手伝いしていただいていて、主役はあくまでただそこに存在している自然なんですね。

 

すごくないですか??

人間が人間のために作ったわけでもない、ただ、そこに存在している世界が本当にとてつもなく雄大で、美しくて、生命力に溢れていて神秘的なんです。

その世界は、人間がそこに立ち入ろうと立ち入らなかろうと、ずーーっと、そこにただそのまま存在しているんです。

晴れの日も、雨の日も、雪の日も、雷が落ちても、ただそこに存在しているんです。

山の景色、じゃなくて山の世界なんです。

 

山岳信仰ってあるけど、とても自然なことだと思います。

だって、あんな雄大で神々しい山の姿見ちゃったら、信仰しますもん。

 

まさにその世界で信仰が生まれてしまうほどの世界なんですよ。

 

終わり。

 

 

 

ひでとぱた

今日は、X JAPANのhideこと、松本秀人さんの20回忌です。

わたしにとっては、hideを知ってから初めての5月2日です。

昨日はちゃんと?ヒデの曲を聞きながら日をまたぎましたよ。

いや、泣くよね、そりゃね。

だって悲しいもんね。

 でね、なぜひでじゃなくてひでとぱたかと言うとね。

前も書いたかもだけど、わたしほんとにパタさんって凄いと思うんだ。

パタさんのポジションにパタさん以外の人がいたとしら、まあよほどの人でないと無理だよね。

隣で音を出して、音楽を作っていた人たちが、ふたりもいなくなっちゃったんだよ。

 

タイジのことにしても、今は一緒にやってない、ていうのと、二度と会うことのできないところに行ってしまった、では埋めようのない差がやっぱりあると思うのね。

 

だけと、パタさんは、その人たちのことを語るときに、悲しい!!!というのをあからさまにしない。

むしろヒデのことを語るときとか、結構つっけんどん 笑

 

なんでまたあなたの曲をやらなきゃいけないんですか、て怒りながらやってますけどね、て 笑

 

だけどね、言うことはそんな感じなのに、優しくて、どこか寂しそうな表情にほんとに深い愛情を感じるのね。

 

タイジが脱退するときとか、X JAPANのlast liveではとっても悲しくてやりきれないような顔をしてて、ほんとは見えないところでたくさん辛い思いがあったんだろうなと思う。

 

つっけんどんにでもしてないと寂しすぎてやっていられないのかもしれないね。

 

パタさんの語らないからこそ溢れ出てしまう愛情がとても素敵だな、と思うのです。

 

後、若い頃のパタさんが美人過ぎます。

美人なのに言葉遣いが悪くてバランスが良すぎます 笑

 

 

…はい、今日は晴天、という訳にはいきませんでしたが、春の暖かさが心地よくて、嬉しくなりました。

 

 

芸術家って

なんとなく、最近テレビでちらちら見るアーティスト(わたしが知っている)って、「普通」っぽい人が多いよね。なんと言うか。

そうでない人もいると思うのだけど。

例えば音楽でいうと、

Xとか、LUNA SEAとか、hydeとか、尾崎豊とか、マイケルとか、悲劇的なところがあるよね。

音楽とか佇まいとかに。

クラシック音楽も何かしら悲劇的な面があると思う。

ランランとかもある意味狂気じみてるね 笑

でも、わたしは音楽はそうであるべきだと思うんだ。

なんというか、音楽やってて、楽しい!もいいけど、それだけじゃないんだ。

やっぱり、芸術として音楽をやるんだったら、楽しい!じゃだめなんだよ。

そこに苦悩に裏打ちされたものが、そこにたどりつくまでの「何が」が見えないと。だめなんだ。

それは、出そうと思ってするんじゃなくて、溢れ出てしまうもので、人々を熱狂させる源になるものだと思う。

お気楽に行こーぜ!ばかり、気楽に力抜いていこうぜ!じゃやっぱりだめなんだよ。

音楽はそんなに生優しいものではない。

ひとりの人が、人生かけて、全てをかけて、心も身も捧げないと「芸術」は生み出せないんだよ。

それまでいかなくても、やっぱり今の、可愛く、楽しく、力抜いて、的な音楽は、何か馴染めない気がしちゃって。

芸術たるもの、狂気がどこかで必要なんだよ。自然な、狂気が。

だから、芸術家が「ありのまま」でいたり、「等身大の自分」でいる必要はないと思うんだ。

確かに、その姿はもしかしたら一般の人に安心を与えるのかもしれない。けれど、それはもはや芸術ではない。

芸術とは何か、という定義の議論もあるだろうが、それは、どこまでも何かを追い続けて突き詰めていく姿を芸術とするなら、それには当てはまらないのではないだろうか。

 

でも、もしかしたら、「普通」の皮をかぶった「芸術家」がいるかもしれない。

では、なぜ彼ら彼女らは「普通」の皮をかぶる必要があるのだろう。

それはきっと、時代の?流れなんだろうな。

今はやらないもんね、あんまり。

真に狂気じみた感じって。

何あの人。きも。

て言われて終わりそう…

なんか寂しいなあ〜

と思いました。

 

終わり。

浸食 

 

L'Arc~en~Ciel

浸食 l lose control

 

芸術だ〜!!!て思いました。

歌詞狂ってるけど。いいんだよ別に。

虹も変わった曲だなあ、て思ったけど、これは、なんじゃこりゃ〜!(hide風)

という衝撃。

 

(ちなみに、hydeさんとhideは、同じ秀人、という名前。hideだとXのhideと紛らわしいということでhydeになったらしい。)

 

え、これhydeさん以外歌えるの?てかL'Arc~en~Ciel以外にかっこよく演奏できるバンドあるの?

 てか、ken天才じゃない??

hydeの歌詞もいかれてるけど、これにこの曲つけちゃうkenも相当じゃない??

hydeの歌唱力とか、表現力を信頼していて、すごく彼に合ったものになっていると思う。

そしてこれを歌いきるhydeさんとそれを包み込む楽器隊どういうこと??

 すごくない?ねえ!!て誰かにすごく言いたいけど、言う人がいなくて消化不良!!

 

なにがそんなにすごいんだろ。

とりあえず聞いたらわかると思うのだけど、敢えて文字で語ろうとすると、何を語ればいいんだろう。

 

不可思議なギターから始まり、そこへふわっと、不可思議なリズムでドラムとベースが滑り込み、そこになんとも色気のあるhydeが歌う旋律が加わる。

やがて楽器の音が静かになり、一瞬のhydeの独唱後、

不穏で甘くて切ない雰囲気から一転、ギターの歪み音を皮切りに、突如テンポが変わり、ヘビーなサウンドと叫ぶようなhydeの歌声に。

苦しみをたっぷり背負ったようなhydeの歌いっぷりが素晴らしい。

そして、激しいサウンドがいきなり途切れ、一瞬の空白後、ぞくっとするほど色っぽいhydeのI lose controlが続く。

 

こんな不安定な曲なのに破綻が全くない。

 これは、ドラムとベースのなす技だろうか。

 そして、この曲が作られたのは、20年前。

 

まあ、名曲かどうかというのに、いつ作曲されたかなんてのは基本的に関係ない訳だけどね。

 

最近はJanne Da Arcを車でかけていたのだけど、今日はやけhydeさんの声が聞きたくなって、L'Arc~en~Cielに変えたのでした。